情報の、グーチョキパーのような関係性。
原因は、情報の形。
これは、とある施設の安全の為に作られた階段出入り口である。
唐突だけれども、僕はこの扉が苦手だ。
この柵の写真からお手製と分かるようにお世辞でも頑丈とは言えない。
ただ利用者の不意な事故を避けるために必要なものであることは、間違えない。
まず、DIYを否定しているわけではない。むしろ、DIYは好きな方だ。
兎にも角にも、こちらの表示を見てほしい。
「こちら側へは絶対に開けない事!!ダメ!!」と書かれている。
開けていけない方向に、矢印の案内。
この扉を使用する際、いつも矢印に向かって押してしまうのだ。
その度に「情報の形には、優位性があること」に気が付く。
→→→→
上を見よ
皆さんは、どうだろうか。
果たして、矢印の影響を受けずにいる人はいるのだろうか。
僕は、どうしても矢印に従ってしまう。
つまり、情報として文字よりも記号は強いのだ。
ただ、言い切ることはできない。状況によっては異なる。
この写真の場合、実際の本の数を数えるよりも文字の方が強くなる。
(ちなみにこれは僕が適当に書いた誤った数字である。)
数えることが億劫なものは、表示の文字を信用してしまったりする。
幼い頃、友人と24個入りのカントリーマームを二人で山分けしていた際、
何故か、1つ余った。
それを取り合いになって、ジャンケンで勝敗はついたものの。
因縁残る結果となったことを思い出した。
これは、日本唯一浜辺を走れる石川県の「千里浜なぎさドライブウェイ」の写真。
写真の車は、進行方向を右に向かって走っている。
もし上部の赤い矢印が道路に立っていたとしても、逆走しているようには見えない。
珍しい場所とはいえ「日本は、左側通行である」というルールは、無意識的・常識的に優位になるようだ。この場合に生まれる矢印の違和感。実際に右側通行を示す看板があれば、困惑を生むに違いないが、看板の設置場所を疑い、迷って末に左側を走るであろうことは想像ができる。
情報にある力関係。
矢印は、ルールをつくる際に相当な力添えをする。
近い未来、扉は僕の手によって破壊されるだろう。
壊す僕が悪いのか、記号を記した人が悪いのか。
無論、矢印に責任はない。
しいて言えば、信用を得過ぎている。
左が右で下が上でのようなちぐはぐな世界観。
エッシャーは好きだけど、あの扉はごめんだ。
終わり。